FM三重『ウィークエンドカフェ』2018年10月27日

『藤商玉屋』は、今回のお客様である玉村裕子さんの義理のお父さんが始めたお店。
籐で編んだ乳母車を昭和の初めの頃から作って販売しています。
以前、伊勢には籐の車を作るお店がたくさんあったそうですが、今では1軒だけになりました。

どもが少なくなり籐の乳母車の需要が少なくなった

伊勢では初孫が生まれると籐の乳母車を送るという風習があったそうで、今もメインは乳母車です。
残念ながら、今は子どもが少なくなってきたので需要も減ってきました。
それに対して、材料も入ってこなくなり、なかなか昔のように作ることができなくなってきました。
昭和40年のはじめの頃は、ビニールでできた乳母車が発売して、それと籐の乳母車と使う時代でした。
でも、だんだんとビニール製のは不安定だということで使われなくなり、籐が残りました。
50年、60年ごろは立派な籐で『ふくら編み』をした乳母車がたくさん出ました。
景気が良かった時代なので、家紋を入れてほしいなどのリクエストもあり、なかな立派なものを買ってもらっていましたが・・・でも、そういう時代はもう、来ないですね。
職人もいなくなり、三重県では私ひとり。
東海三県でも三人くらいしかいないん違うかな。
籐の好きな人から、昔、子どもに使った乳母車を孫に使いたいので、修理してほしいと来ることがあります。
大事に愛着を持って使ってもらえて嬉しいと思い、修理させてもらっています。

 

は乳母車よりお年寄りの手押し車の受注がある

籐の乳母車づくりは、4段階くらいの工程で作っていました。
『ふくら編み』という意匠を施す部分が増えれば増えるほど、手間がかかり値段が高くなってくるもんで、予算に合わせて作らせてもらっていました。
出来たては白いので、早く飴色になるのを待つ人もいました。
丈夫で長持ちするし、軽いし。
お年寄りが畑に押して行く車ありますよね、ああいうのは濡らしても大丈夫です。
しかし籐の好きな人はあんなものは押したくないと言って、籐の手押し車を注文に来る人がいます。
私個人は歳をとってきて作るのがしんどいので、「あっちのほうがええよ、フル装備でブレーキも付いているし」と言っているんです。
あっちは腰もかけられるし、こっちはノーブレーキだし腰もかけられないし(笑)。
それでも「あんなん年寄臭くて押したくない」、と注文してくれる人がいるので嬉しいですね。
作る大きさによって、裁断して、周りに打ち付けて。
腰編みといって、まず7〜8cm編んで、それを一晩お水に漬けるんです。
柔らかくしないと細工できないので。
で、翌朝出して、型にはめて組んでいくんです。
上手に作れるようになるにはおよそ10年かかりますね。

 

ともとは籐の手芸教室を開催

私も玉屋の仕事は最初、お手伝い程度でしたが、それでも籐の乳母車のお手伝いは記憶にありません。
子どもの手が離れると手芸を勉強して、昭和50年に手芸教室をはじめました。
籐の教室がだんだんブームになってきて、生徒さんも100人を越えるようになってきて、津や松阪に出稽古、伊勢近辺では講座を開き、一週間フル活動していました。
なので、お店の仕事は全然していませんでした。
籐手芸の教室が主で。
しかし55歳のときに夫が倒れたため、出稽古もやめ、うちだけの教室にして職人さんの手伝いをするようになったのが、籐の乳母車に触った最初でした。
それから夫も7〜8年職人さんとして頑張っていましたが、癌で亡くなってしまって。
一人になったのでやめようかなと一時は思ったのですが、お客さんから「待っとるから作って」と言われて。
待ってくれる人がいるなら作ろうと、続けてきました。

 

の製品がブームだった時代があった

よその同業者さんから、「玉村さん、まだ作っているのだったら、3台や5台、出来次第でいいから送ってほしい」と言われたりして、そんなこんなで籐の乳母車作りも上手になってきました。
55歳からはじめたので、年齢的もまだ余力があったのかな。
10年くらいがんばって作って。
70歳を過ぎてからは、ちょっと大変になってきたので、同業者への卸はやめさせてもらいました。
昔は子どもが生まれると、ベビーダンスからブランコから三輪車、滑り台・・・みんな一式買って、トラックで運んだ時代がありました。
うちもその当時はベビーダンスやブランコなど、すべて置いていました。
置いてなかったのは衣料品くらい。
子供の家具はほとんど置いていました。
今から思うと嘘みたい・・・寂しいねえ。
それでも、できるだけがんばって、籐と関わっていきたいなと思っています。