FM三重『ウィークエンドカフェ』2019年12月21日放送

今回のお客様は、松阪にある『ギャラリー森田』の森田亨さんです。
森田さんのお店は創業120年の老舗茶道具店。
松阪の商人たちが好んだ使った華やかな松阪萬古(まつさかばんこ)がショーケースに並んでいます。
松阪萬古を支えたのは、松阪商人と呼ばれる豪商たちでした。
茶道具を中心に作らせ、江戸の町で広めました。

川竹斎が古萬古を受け継ぎ、窯を開いた

松阪萬古の、古萬古の創始者は江戸時代中期の沼波弄山(ぬなみろうざん)です。
一時途絶えましたが後に、親戚である射和の竹川竹斎という方が再興され、窯を築きました。
また、竹川竹斎は商売をしていたため、江戸の別邸にも窯を築いて将軍に献上したそうです。
一時は非常に隆盛を極めました。
しかし商売も時代とともに廃れました。
実際は7年間だけですが職人もいろいろな所から呼び、生活用品なども作っていたそうです。
その後は流れも途絶えて、その流れで松阪の佐久間さんが投稿を読んで、幕末に松阪萬古を興したというのが松阪萬古の始まりで、今、現代まで続いているということです。

 

人であった松阪商人たちが、松阪萬古を守った

幕末から明治にかけては転換期で、衰退するもの、復興するものがあったと思います。
松阪は三井さんをはじめ、小津、長谷川、永井さんなど江戸店を持つ、錚々たる豪商がおりました。
その方々は茶人でもありましたので、松阪萬古を明治・大正・昭和と代々の旦那衆がこぞって盛り上げて、ときの裏千家の家元、表千家の家元を招いてのもてなしをしました。
そのことから家元にも可愛がられて、小物やその他の茶道具の製作も盛んになりました。
戦後は特に茶道が一般大衆、特に女性に浸透し、教育的にも良いということで隆盛を極めていく中で、家元やお茶の先生を中心に茶道具が広がっていき、良いものができたので、今もつながっております。

 

阪萬古は、色が華やかで絵付けが盛り上がっている

沼波弄山が作られた独特の萬古の発色。
あか、きいろ、あお。
独特の奇抜な極彩色が綺麗で、さらに絵付けが盛り上がっていて、『盛絵』と言います。
萬古独特の手法で、それが非常に受けて茶道に取り入れられ、全国に広まっていったことで萬古焼が普及しました。
最初、茶道がそんなに盛んでない頃は生活雑貨などで、松阪商人の旦那衆が、家によって特色のある品を作らせていました。
数がたくさん必要なんですね。
お客さんを招いたり奉公人もたくさんいるので。
まずは生活用品が主でした。
その後、茶道が極まっていく中で、茶人からのリクエストに応じて茶道の道具を作ったところ、家元の目に留まり、家元の好みや表千家の好み、裏千家の好みなど、そういったものも数ができてきました。

 

阪萬古を全国の小売業の人たちに扱ってもらうようにした

茶道が盛んになって、私の父の時代に車の社会になりました。
松阪萬古を全国の小売業者に販売して普及していく担い手となり、家元との間に入って小間物を作っていただきました。
また、みなさんに使いやすいものを松阪萬古の佐久間さん歴代ともいろいろ考案して、家元にも書付をいただき、全国の小売業者を中心に広まっていきました。
うちも担い手として萬古の隆盛に関わってきました。
戦前は、お茶は男子で身分の高い人のものとされていましたが、戦後は女性もお茶もされるようになりました。
二十歳を超える前から花嫁修業として、お茶・花・料理などいろいろなものを習う習慣が深まりました。
それが茶道の普及に役立って、日本の教育的文化・・・家庭で教えてもらえないような教養も身につけられました。
躾というものを重んじる傾向もありますので、それもピシッと仕込んでもらって、また家庭を持てばそういう教育ができるようになる・・・それが日本の文化というか、とても重要な役割を果たしていたと思います。
諸事段々と少子高齢化もありますが、近頃、人々の心が茶道が離れていっている気がします。
今後どのように日本の文化の継承をしていくか・・・中心的な役割を果たしていたと思われる茶道が、衰退することないよう今の時代を懸命に、家元をはじめ各流派の先生方も、がんばっています。
が、時代の流れには勝てない部分もあり、非常に苦労している最中です。

茶道具を販売するだけでなく、お茶の先生と作家の間に入って作品を作ってもらうのもうちのお店の役割の1つです。
お茶をするにあたって人を招いて楽しむ、これは『おもてなし』に付きます。