FM三重『ウィークエンドカフェ』2020年8月1日放送

松阪市愛宕町。
ここは、世界の小津と呼ばれた映画監督、小津安二郎が過ごした町。
今回のお客様は『小津安二郎青春館』館長の佐野洋二さんです。
佐野さんの家と小津監督の家はお隣さん。
青春館がある場所は、小津家が住んでいた場所です。

津安二郎生誕100年を記念して作られた『小津安二郎青春館』

松阪の小津安二郎が好きな映画ファンが集って『松阪小津組』というグループを作りまして。
生誕100年に合わせて記念館を作ろうと市役所に掛け合って、実現したのが18年前。
最初は松阪の方も小津監督のことを知らないという人が多かったのですが、こちらで勉強したとか小津監督の映画を見たとか言われるようになりました。
松阪の人にも小津安二郎の名前がかなり浸透したと思います。
それから、海外の方もけっこう来られますね。
ヨーロッパ、南米、アジアの方々が、小津監督が住んでいた場所だということで、やってきます。
コロナの前ですけどね。
十代の多感な時期をここで過ごし、おそらく映画の中でも何らかの形で投影されているのではと思い、『小津安二郎青春館』という名前にしました。
たまに、「このシーンは子ども時代の思い出を使ったな」と思うものがありますね。
旧制中学の同級生のエピソードを映画の中で使ったりもしています。

 

督が子どもの頃、映画と出会うきっかけとなった『エジプトクラブ』の資料もある

実は子ども時代の資料を並べていますが、一番大切なのは小津監督が子どもの頃、映画に出たことです。
『エジプトクラブ』という映画研究会というか、映画好きの子どもたちが集まって、グループを作っていたそうです。
これはもう僅かにしか資料が残っていませんが、小津監督の映画人たらしめたきっかけなんです。
旧制中学を卒業した年の7月に、エジプトクラブを立ち上げたという日記が残っています。
子ども時代の資料が中止なんですが、けっこうやんちゃな子どもだったんですね。
文章もうまく、何よりも几帳面で完璧主義。
それを感じられる少年時代ですね。
当時、絵の先生から「絵がうまい、特に構図がうまい」と言われています。
小津さんの映画の中のワンシーンがそれぞれキチッとした絵のような画面になっています。
とにかく面白いです。

 

楽座がなかったら映画を作っていなかっただろうと監督は言っていた

監督が大切にした場所の1つが『神楽座』。
神楽座はかつてこの近くにあり、昭和26年11月に小津監督とコンビを組んでいた野田高梧という脚本家とここに泊まっているんです。
その時に松阪を監督が案内しているのですが、「この芝居小屋がなかったら自分は監督になっていなかった」と言ったそうです。
それをイメージして『小津安二郎青春館』の入り口を作りました。
先程、昭和26年と言いましたが、その年の12月『松阪大火』という火事で焼けてしましました。
小津監督が泊まったわずか1ヶ月後になくなってしまいました。
小津監督が住んでいた家も、残念ながらその時に焼けてしまいました。
ただ、火事で家は焼けましたが、土蔵は焼け残りました。
その土蔵の中に、小津家が東京へ引っ越す時に残していった物たちは無事でした。
それがこの青春感に飾ってある、いろいろな資料なんです。

 

べてのタイミングが合い、それを監督はしっかりとキャッチした

一般的に『東京物語』が一番素晴らしいと言われています。
「僕も東京物語が好きだ」というと、当たり前との答えじゃないかと言われそうですが、それでもやっぱり素晴らしい映画ですね。
大学の授業などにも使われているそうです。
普通の芸術学部の映画としてだけではなく、教養として小津監督の映画を習ったと言う人もいます。
小津監督の名前がどんどん浸透していますね。
イギリスの映画雑誌『サイト&サウンド』が2012年に発表した世界映画史上のトップテンで東京物語は1位となりました。
すごいことです。
小津監督は映画に出会ったというのもめぐり合わせですね。
1918年に第1次世界対戦が終わりましたが、それまでは映画といえばヨーロッパの映画でした。
フランスやスペイン、イタリアなど。
第一次世界大戦後にヨーロッパの映画産業が疲弊して、アメリカ映画が台頭してきました。
アメリカ映画は、それ以後随分入ってきています。
小津監督の映画は、そのアメリカ映画の影響をとても受けています。
アメリカ映画の時代になってきたことが、小津監督の映画作りのきっかけで、そこから映画監督になったのではないでしょうか。
このタイミング、これはすごいと思います。

いろんなところで小津監督の名前が出てきます。
小津監督はまだ生きているんですね。