FM三重『ウィークエンドカフェ』2021年3月27日放送

名張、赤目の山々にも春の花が咲き始めました。
今回のお客様は『NPO法人赤目四十八滝渓谷保勝会』の増田茂樹さん。
明治の頃から観光地として栄えてきたこの場所を紹介していただきます。

験道の場所。黒田の悪党という人たちが開いてきた

明治31年から遊歩道を整備して、観光地になっています。
この地域の河は大阪湾に流れているんです。
ですから昔から関西のつながりが深いところで、今も関西のお客さんがたくさんいらっしゃいます。
明治時代には赤目四十八滝の写真集も出ていたそうです。
それくらい関西では知られた場所だったということです。
古くは修験道の開祖、山伏のルーツである役小角という行者がここを開き、修験の場としました。
戦国時代には忍者が修業したことも知られていますが、その頃には東大寺の『黒田悪党』という大庄園があり、有名な場所でした。
1300年以上続いている二月堂の『お水取り』も、実はこの赤目から松明を700年以上途切れずに運んでいます。
それが『黒田の悪党』という歴史上の人たちと、深い関わりがあることなんですね。
東大寺の、権力側から見るとそれに歯向かったということで『悪党』と呼ばれましたが、こちら側から言うと勇敢な人たちなので、決して悪人ではないと理解してほしいです。

 

大寺、興福寺の再建などで豊かなところだった

大きな災害もない地域で、肥沃で作物もよく育ったんですね。
だから時間を有効に使うことができました。
木材もとても質が良いものが取れたので、興福寺を再興するための木材をここから送りました。
また、鉱山がたくさんあったようでタタラがあり、ここで奈良の都で培った最先端のノコギリや斧などを修繕することができたそうです。
ですから、奈良の都から見るとここは非常に重要な場所だったんですね。
赤目の河の上流も奈良県になるので、渓谷の途中から奈良県なんです。
江戸時代になると『お伊勢参り』がブームとなりました。
その街道も伊賀の地域にたくさんありまして、大阪・奈良・京都などの都からの道中になるため、江戸時代は宿場町としても栄えました。
特に『南伊賀』と呼ばれる名張の地域は、古くから栄えた要所であったということです。

 

灯のイベントを開催。名張と竹の話

もともと旅館であった場所を『赤目自然博物館』として、周りの自然やさまざまなものを見ていただいて、赤目の渓谷の中でそれを確認していただく場所にしました。
昨年オープンし、新しいスポットとして訪れる人に喜んでもらっています。
博物館だけが博物館ではなく、赤目の自然も博物館の一部と考えて、施設の整備を進めています。
まだまだ展示しているものは少ないですが、例えば植物。
渓谷にはたくさんの苔が自生していますが、なかなかその名前や種類はわかりませんよね。
ここでその代表的な苔の名前や形を覚えてもらい、実際に渓谷で探してもらうことは、新しい楽しみ方ですよね。

『幽玄の竹あかり』ということで、今のはやりのイルミネーションではなく、日本古来からある竹を生かしたライトアップにしました。
これは地域の方たちも一緒に参加していただく『竹あかりプロジェクト』で、放置されている竹林を整備し、赤目で明かりを灯すというものです。
今、よく言われるSDGs(「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」)の取り組みなんです。
同じ伊賀でも北の方に行くと『上野城』という藤堂高虎が築城したお城がありますが、名張にはお城がなく、城壁の代わりに竹を植えてお城を守っています。
春には食用にもなりますし、竹は少し前まで重要な建築資材や生活用品としてとして使われていたので、名張は竹とともに文化があったのです。
古くは火縄銃の火縄。
今でも伝承されているのは、竹を細かく繊維を裂いたものを火縄銃の火縄にしていたということ。
これは日持ちがよく、今もその文化が引き継がれています。

 

摩行が行われる

明日行われる、赤目四十八滝まいり、安全祈願法要は、毎年春に行われている行事です。
本来は赤目の修験者を招いて、千手滝の滝壺のほとりで大護摩を焚き、火渡りをします。
滝のところで護摩を焚くというのは、珍しいのではないでしょうか。
例年は滝壺の中で水行などもするのですが、今年は着替え場所が密になるため、中止をしました。
火渡りは行います。
檀木を井桁に組んで燃やし、その燃やしたものを地面に並べてその上を歩きます。
私も何度もしたことがありますが、そりゃ熱いです。
けれど不思議と火傷をしないんですよ。
そういうパワーがあるのかもしれませんね。

赤目が信仰の対象から観光地になってきたので、また信仰の対象である自然とか、神々が宿る場所だということを大切にしていきたいと思います。