FM三重『ウィークエンドカフェ』2023年7月8日

四日市市大矢知町。
北勢バイパスを走っていると『久留倍官衛(くるべかんが)遺跡公園』が見えてきます。
今回は、『くるべ古代歴史館』の学芸員大野路彦さんがお客様です。

るべは地名 官衛は役所の意味。四日市北部の役所だった場所

『くるべ』というのはこちらの字名になります。
漢字は難しく、『久しい』に『留』そして『倍』…これは平仮名を漢字にしたものになります。
『官衛(かんが)』というのは、昔の役所の跡のことを言います。
簡単に言いますと、四日市の市役所の跡だった場所が『久留倍官衛遺跡』です。
四日市、2つに分けますと北側が朝明郡、南側が三重郡と、昔行政区分が分かれていました。
こちらは北側の朝明郡の市役所だったことがわかっています。
それが『久留倍官衛遺跡』ということになります。
小高い丘の上に建っていたとされていて、景色が非常に綺麗だったと考えられています。
『久留倍官衛遺跡』は東向きの役所だったことがわかっています。
なぜ東向きだったかは各研究者によって違うのですが、東側は海が見えて綺麗だったからだとの説もあります。

 

期は長大な建物、三期は倉庫群が並ぶ

遺跡は飛鳥、奈良時代から平安時代の前期にかけてのものです。
全部で3期に分けられ、それぞれの時代のことがわかります。
もともと弥生時代の時などが発見された『久留倍遺跡』というのが、もともとの遺跡の名前でした。
北勢バイパスの建設にともない発掘調査を行ったところ、いわゆる『官』、役所の跡が見つかったというのが発見のきっかけとなっています。
なぜ『八脚門』と言うかというと、前4本、後ろ4本と、計8本の柱があったということで、非常に由緒正しい役所の門だったことがわかっています。
正殿ですが、こちらはお役所の中心的な建物になります。
脇殿といって、こちらがお役所で働く人たちが使っていた建物です。
後ろには正倉がありまして、税としてのお米などを保管していました。
ここまでが一期の建物となります。
で、二期の建物に関しては大きく長大な建物で、聖武天皇の東国行幸に関する建物ではないかと言われています。
こういうふうに、建物の柱を見てもらうと色が違うところがあります。
これは柱を抜いたときの跡になります。
調査で、色の違いによって新しい古いを判断させていただくのが、発掘調査の基本になります。
そしてこちらが三期の建物になりまして、床を持つ正倉院の群が見つかっていまして、周りに防火と防犯のために掘られた溝があったことがわかっています。
なぜ役所の跡かというと、正殿・脇殿・八脚門が残っていますが、こちらに文房具として円面硯や転用硯というスズリが見つかっていまして、それから墨書土器という字が書かれた土器が見つかっていますので、字を書くお仕事をする人たちが扱っていたということで、役所の跡だったと考えられています。

 

申の乱に関わる場所が四日市にはたくさんある

古代史上最大の戦乱、壬申の乱は、四日市と深い関りがあります。
『くるべ古代歴史館』では、その時代背景を学ぶことができます。

壬申の乱というのは天智天皇の同母弟『大海人皇子』と息子『大友皇子』の争いだったのですが、大海人皇子は壬申の乱の当時、吉野のほうに脱出しておりました。
美濃で大友皇子が軍を集める動きがあるから助けてほしいとの要請がありまして、自分が出ていくしかないと、吉野を出発します。
3日間かけて関ケ原の方へ行くのですが、旧暦の6月26日、朝明峠にいたるとの記事が日本書紀にあります。
『とうがわ』がどこの川かはいろいろな説がありますが、その川のご遥拝所の跡地がこの近くにありまして、その川のほとりの場所で、戦いに勝利できるよう祈願したと、日本書紀の中にございます。
その伝承地が、この近くに2ヶ所あり、実際にそこでお祈りしたかどうかはわかりませんが、四日市市と壬申の乱は大きく関わっていることになります。
そのあと、桑名の方に行きまして、桑名で奥さんと別れ、関ヶ原に向かったと考えられています。

 

国行幸のなかに大伴家持もいた

第二期の建物は、聖武天皇の東国行幸が行われた時代のもの。
万葉集で詠まれた植物は、歴史公園で見ることができます。

藤原広嗣の乱というのがありまして、そちらの勝利を祈ってひおじいさんの足跡をたどるということで、壬申の乱のときに大海人皇子と同じルートを通られて、朝明郡に2泊したということが続日本紀に書かれています。
そちらの使った施設が第二期ではないかと考えられています。
行幸の場合は奥さんからお子さん、1000人近い従者を連れて行ったと言われています。

四日市市にある『智積廃寺』というお寺があります。
さらに朝日町に『縄生廃寺』というのがありまして、そこが朝明郡の郡寺でないかと言われています。
壬申の乱のときに、自分に味方してくれた豪族へのご褒美として、お寺を建てる資金を援助してのではないかと言われています。
『智積廃寺』や『縄生廃寺』は瓦寺式の貫丸瓦というのが出ていまして、瓦寺式貫丸瓦が出たお寺はすべて、壬申の乱のときに協力した豪族が建てたお寺の瓦に使われています。
この行幸の中に大伴家持がおりまして、万葉集にも三重県や四日市のことを詠った歌が何種かありまして、公園の北側の園庭に家持に読まれた植物を植栽させていただいています。

 

あくまでも想像ですけど、東側の正面、海を見ていただくと、悠久の時を感じることができます。