FM三重『ウィークエンドカフェ』2023年10月21日放送

松阪の礎を築いた戦国の武将 蒲生氏郷。
氏郷が作った松坂城跡に松阪市立歴史民俗資料館があります。
今回は『松阪市立歴史民俗資料館』の館長、米倉茂さんがお客様。
松阪と氏郷についてお話していただきます。

田信雄が築城した松ヶ島城が手狭になり松坂城を作った

文武に秀でた将、蒲生氏郷と銘打って、この松阪を作った武将について展示しています。
当時蒲生氏郷が豊臣秀吉に仕えていたということがあって、豊臣秀吉が大坂城を作ったと。
その坂が『つちへん』でしたもので、松坂の『坂』も『つちへん』としました。
氏郷が豊臣秀吉の家来だったとき、織田信雄がこの辺りを領地としていました。
豊臣秀吉が信雄を攻めた。
その時に氏郷も豊臣方に付き、信勝を滅ぼしました。
そのことで織田信雄のあとに氏郷を城主として松阪へ行け、と。
松ヶ島城へいけと、という秀吉の命により松阪に来たということになります。
織田家の次男の織田信雄の城ですから、金箔を使った五層の天守がある立派な建物だったとの記録があります。
松ヶ島というところが海沿いでして、非常に繁栄はしていたのですが、手狭なお城、あるいは城下町だったので、その後の発展を考えたときに、もっと広い土地を、そして小高い丘のある『四五百森(ヨイホノモリ)』を選んで、松坂城の建設を始めました。

 

宮街道を海沿いの松ヶ島から『四五百森(ヨイホノモリ)』へ移動させた

氏郷は秀吉の家来になる前は、織田信長の家来でもありました。
幼い時から織田信長の城造り、城下町づくりを見てきたので、織田信長の城づくりの様子を学び、非常に堅牢な城郭を作る、城づくりの名手と言われました。
特に参宮街道が、松ヶ島城のあった海沿いを通っていたのですが、松坂城建設と同時にその参宮街道を数kmも離れた四五百森に引っ張ってきました。
そして城のすぐ近くに参宮街道を通すような城下町づくりをしました。
それが非常に大きな点だと思います。
二の丸、三の丸の周りに城下町を作っていくのですが、その城下町にまず武士を住まわせ、その周りに町人たちを住まわせ、さらに一番外側に、お寺を点々と作りました。
そういった城下町づくりは外から責められたときも、お寺が武士たちの攻める・守る拠点となるということがいろいろな資料からわかってきております。

 

市楽座を推奨し、商業の自由度をさらに上げた

織田信長が楽市楽座の制度を近江の方でやっていましたが、それにならって氏郷も、織田信長よりも一歩進んで『十楽』という言葉を使い、商業の自由度を一段とアップさせてまちづくりをしていたといえます。
氏郷は、近江日野や伊勢大湊から有力な商人を松阪に集め、これにより人々が集まり、商業の町として発展していきます。
有名な三井高利もこの参宮街道沿いに店を構え、本店を江戸に出して松阪もめんなどを売り出して大商人になっていくわけです。
参宮街道沿いにたくさんの伊勢神宮参りの人たちが通っていきますから、江戸の文化もいち早く取り入れて、いろいろな情報を仕入れて、それが商都・松阪の基礎となっていきました。
氏郷の時代に築いた松坂城の『野面積み』という石垣が非常にはっきりとした形で残っていますので、ぜひ天守閣の野面積みを見ていただきたいと思っています。
綺麗に削られた石を並べるのは簡単なんですけど、そのままの原石の大きな石を崩れないように並べて石垣にしていくのは大変な技術が必要なんです。
そしてそういった職人さんたちが積み上げた石垣によって頑丈で堅牢な城郭ができ上がっているということに着目していただきたいと思います。

 

頭を切って敵陣へ挑んでいった。家来たちを守る意味もあった

兜の形については軍記物に載っていますが、銀の鯰尾の『なりかぶと』を被った氏郷がいろいろな戦で活躍したと書かれています。
大河内城の合戦では、鯰尾の兜に3発も鉛の弾の痕が残ってしまったという逸話も残されています。
あるいは松ヶ島城にいるときには、戦いの中で蒲生軍が負けそうになったときに、氏郷が鯰尾の兜を被って、馬に乗って一人で敵陣に駆けいって敵を蹴散らし、その契機に蒲生郡が勝利したと書かれています。
ちょっと無鉄砲なところがあり、「俺について来い!」と先頭に立ってこの兜を被って突っ込んでいくんです。
ですから兜が非常に目立って、敵から狙われやすいんですけど、それよりも氏郷は、味方が自分の動きをよく見られるようにと、このような目立つ鯰尾の大きな兜を被って、戦闘に突っ込んでいったと。
そのあたりがとても氏郷らしいなと思っています。

今の松坂の元を作った、商業の町・松坂の基礎を作ったのが氏郷だと思います。