FM三重『ウィークエンドカフェ』2023年12月9日放送

名張市上小波田。
観阿弥が初めて猿楽座を建てたと言われるこの場所は、江戸時代になると火縄が作られるようになりました。
その伝統産業を守っているのが『上小波田火縄保存会』のみなさんです。
メンバーは6人。
会長の岩嵜義孝さんにお話を伺います。

会長の岩嵜義孝さんと保存会の勝島政信さん

路を作るために火縄が使われたのが発祥。藤堂藩は竹を使った火縄

1671年、江戸時代だから寛文11年くらいかな。
ここの北の方で水路を作るために、高低差を図るために火縄を作ったのではと言われています。
火縄を並べておいて、で、高低差を出したんと違うかなと思います。
もともと技術は持っていて、それは文献にないからわからないんですよ。
作り方というのは、一般に公開していませんでした。
火縄というのは、いろいろな場所でいろいろな火縄があるんですけど、徳川家康は普通の綿を使っていました。
静岡の方では。
それを利用して火縄銃の種火として使っていました。
埼玉の方では、女竹という細い竹を使って火縄にしていたとか。
いろいろな場所によって製法は違うのですが、目的は火縄銃の種火というかね。
各藩で作り方は公開していない。
多分、藤堂藩は竹を使った製法で作ったということですな。

 

の火縄は火が消えにくいので、上小波田の火縄が選ばれた

上小波田で作られた火縄は京都・八坂神社の年越行事『おけら詣り』で使われます。
無病息災を願って神社の火を家に持ち帰る『吉兆縄』です。

八坂神社には、ずっと絶やさない火が本殿に置いているんです。
その火を『おけら』…多分よもぎだと思うんですけど、根の部分を燃やす。
それと護摩火と一緒に燃やして、持って帰る手段がありませんでした。
たまたま伊賀上野の特産品、雨傘と組紐を京都に納めていた問屋の人が、八坂神社さんから『おけら祭』というのがあるのを知り、それと私どもの火縄がうまくくっついたということになるのかな。
昭和50年だったかな。
組合員もたくさんいたので、7500本。
家の当主、ご主人がナタで竹を削って「かく」、奥さんがかいた竹の皮を縒り合わせて「なう」作業、子どもが干す作業、分担していました。
私の親父も爺さんもやっていたので、家で総掛かりでしていた記憶があります。

 

い真竹を削り、それを縒って縄をなう

400年に渡り守られてきた伝統。
責任と誇りを持ってその火は灯されています。

八坂神社へは1200本の火縄が収められます。
今が一番忙しい時、
保存会の勝島政信さんと火縄を作っています。

竹の表皮というか、青いところを削ります。
この節間が長いのが良いです。
孟宗竹だと厚いのだけど、節間が短いです。
真竹というのを使います。
これで伸ばしておいて、勝島さんが『なう』作業をします。
彼は『なう』作業の一番ベテランだから、よりが浅いんです。

勝島 でも製品としては出来上がったら一緒なので、切れない程度に『よって、なう』という表現の部分に繋がります。
綿を糸にする『撚糸』の工程と同じです。
『番える』というんですけど、一本ずつ番えながら、だいたい2本になるように。
短いものなので、縒っては番えながら一本足すと。
手間は手間なんですよ。
2回か3回縒ったら1本になるでしょ。
3m…11尺作って1本です。

 

日に作ることができるのはせいぜい1人10本。神社との信頼を裏切らないように今年も頑張って作る

稲わらは、火を点けてもどこかの段階で消えるんです。
でも火縄は消えない。
油分がけっこうあるので。11月から火縄づくりが始まります。
今年の分を納めたら3月まで来年の分を作ります。
今年も半分以上は一人でやらないといけないと、覚悟はしています。
けれどやっぱり、断るのは簡単だけど、これまでの信頼関係もあるので、なんとか数は確保したいと思っています。
各個人の家で作業をしてもらっていますが、6人のうち4人がまったくの素人でした。
縄にしたものを最後に干して、サンドペーパーでこするんですが、それをするともう、ホコリが舞い散るんで、今は私の農作業場でやることにしています。
みんなでしていたほうが、張りが出てくるもんでね。

12月20日くらいまではフル生産して、注文をもらった予定数をこなそうかなと思案しているところです。