「ふれあい」VOL.15 2009年5月号

台風災害にも負けず、わさびを通じて地域の魅力を発信!
森の名人がつくるわさび!

この地でわさびを作り始めたのは、58年前、私の父の代からです。

もともと我が家は林業を主としていましたが、零細でしたので、大規模な林業家のように機械化を進めたりすることができませんでした。

そういった事情もあり、生活を支えるひとつの手段として、当時から価値ある作物として取引されていたわさびを栽培するようになりました。
私は父の仕事を手伝うことから始めて45年になります。

わさびというのは非常にデリケートな植物で、年間を通して水温の変化が少なく、綺麗な水が流れ続ける場所でないと育ちません。
ここのようにわさびを栽培できる条件に恵まれた場所というのは少ないんです。

わさびが育つということが「美しい水」を証明する根拠にもなるんです。

私は、水の美しさをアピールする代名詞、そして大台町の魅力を発信するための有効な手段として、わさびをもっと活用し、地域活性化に繋げていきたい。
そう考え、この土地でずっとわさび栽培に励んできました。

わさび田が全滅するも力強い意志で復興へ

平成16年9月29日、台風21号による土砂災害で、わさび田は準備中であった工房もろとも全滅してしまいました。
豪雨の中、私の目の前で土石流が発生し、濁流が押し寄せて本当にあっという間に…。
最初は現実に起こっていることだと思えなかったですねぇ。
これまで何十年もかけて、父の代から作ってきた生産活動拠点が一瞬にしてなくなってしまったんですから。同時に、自宅も土砂崩れで全壊してしまうなど、自然の脅威を見せつけられた強烈な体験でした。

災害後、わさび作りを再開するか、止めるかの葛藤もありましたが、程なく再開を決意しました。
なぜなら、三重県でわさび田を作れるのは私のほか、ほとんどいないので、私がここで諦めてしまえば何十年と積み重ねてきたこの地でのわさび作りの技法が途絶えてしまいます。
それでは、今まで私たちを支えてくれたこの土地に対して申し訳が立たない。
わさび作りの灯を絶やしてはいけないという使命感に駆られたのです。

新しいわさび田作りはゼロからの出発ではなく、荒れ果てた土地をまず元へ戻す、マイナスからの復興となりました。
水温の上昇を抑え、効率よく水が巡るよう何重にも石を敷き詰めなければならないわさび田作りには、長年の経験と知識が必要です。
そこで自ら構想を練り、図面を引き、土木作業を行い、わさび田の再建を行ってきました。

昨年(2008)の春、ようやく第一期工事が終わり、5アールのわさび田に苗を植え付けるまでにこぎつけました。
今、新たに工事を進めている分が完成しても、以前の作付面積の半分あまりと完全に元には戻りませんが、それでもまたわさびを栽培できるようになったことは本当に嬉しいですね。

念願のわさび工房設立 未来へと想いをつなぐ

昨年(2008)の秋には、大台町内にある「奥伊勢フォレストピア(森の国工房)」に念願の「わさび工房」を開設しました。

被災による中断を経て、5年越しでやっと実現したこの工房では、私が育てたわさびを使って「わさび漬け」や「茎の三杯酢漬け」などの加工品作りを体験していただけます。

一人でも多くの人に訪れてもらい、それがまちを元気にするきっかけにつながっていけば嬉しいですね。
このあたりは限界集落なんて言われていますが、やる気さえあれば活気をもたらすことができると思っています。
この先、わさびの機能効果を活用した製品の開発も考えています。

この春、5年ぶりにわさびを収穫することができました。
これでやっと一歩、復興に近づき、明るい兆しが見えてきたのかな、と思っています。

多くの方々に激励やご支援をいただき、天の恵みを受けて生活の糧を得られることは尊いことだなと、日々、水の大切さを噛みしめ、感謝の気持ちを持って仕事をしています。

昨年、社団法人国土緑化推進機構に「森の名手・名人」として認定していただきました。
自分を名人だとは思っていませんが、長年、宮川の清流を親子でアピールしてきたことが認められたのかな、と感じています。
これまで頑張ってこられたのは、私を支えてくださる方々の存在と、生まれ育った土地への地域愛があるからだと思います。
確かに苦しい時もありますが、苦しみを明るい楽しみに切り替える努力を心掛け、復興を続けていきたいですね。

「過去は未来のため」という言葉にならい、これまで行ってきたことを地道に継続していくことで、地域を元気にしていきたいです。