FM三重『ウィークエンドカフェ』2013年9月21日放送

今回のお客様は、鈴鹿市文化振興部文化課の代田美里さん。

鈴鹿の町には、博物館や資料館がたくさんあります。
伊勢型紙や鈴鹿墨の伝統工芸品など全国に誇れるものがあり、偉人といわれる人々を多く輩出してきた町だからでしょうか?
伝統や文化を大切にしつつ、町としても大きく発展してきました。
その鈴鹿の歴史を多くの人々にわかりやすく伝えることが代田さんのお仕事です。

今回は、9月21日から『大黒屋光太夫記念館』で開催される『光太夫を生んだ船文化~白子廻船とその周辺~』展にちなみ、大黒屋光太夫を中心にお話していただきました。

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■文化課が管理している資料館

鈴鹿市役所の文化課としては『大黒屋光太夫記念館』『佐佐木信綱記念館』『伊勢型紙資料館』『庄野宿資料館』『稲生民俗資料館』の5館を管轄しており、『佐々木綱誠資料館』以外は、すべて私が担当となっています。

かつて農耕の町だった『稲生民族資料館』には農機具などが展示されてあり、懐かしい感じがしまねす。
ご高齢の方には懐かしいものですが、子どもたちにとっては「何コレ?」状態なので、クイズを作って展示しています。
普段食べられているお米がどうやって食卓まで来るのかを、子どもたちは全然知らないので、それをクイズにして。

伊勢型紙も伝統工芸ですね。
『伊勢型紙資料館』は、寺尾家という型紙商の中でも一番大きな紙の問屋さんの家を改装して使っています。
味わい深い古民家の趣きを味わってもらいつつ、型紙の手仕事を見ていただくという形で。
白子自体がかなり大きな港街だったため、そういった風情は、町のいたるところに残っています。


→伊勢型紙資料館
→庄野宿資料館
→稲生民俗資料館


■大黒屋光太夫はとても優秀な人だった!

白子の廻船は、実は現在の日通やヤマト運輸のような、日本でも最大手の輸送会社のような大きな団体だったんです。
さらに白子は木綿の積み出し港としても、とても有名な港でした。
松阪から伊勢木綿が運ばれ、江戸で活躍する伊勢商人たちの繁栄を手伝ってきました。

なので、大黒屋光太夫は、教養・レベル・人物においても、そのへんの船の船頭よりも上だと見込まれて白子の廻船の船頭になったはずなんです。
その光太夫だからこそ、漂流しても帰って来られたんだろうな、と思っています。

今回の『光太夫を生んだ船文化~白子廻船とその周辺~』では、その光太夫を生んだ素地となった船文化を紹介したいなということで展示をすることにしました。

光太夫の載った『神昌丸』は、江戸に荷物を運ぶ途中に、静岡県の沖合で嵐に遭ってしまいます。
船自体を帆柱を切り離してひっくり返るのを防ぎ、嵐を凌ぐことはできましたが、そうなると船自体をコントロールできなくなってしまったんですね。
となると、後は海を漂って。
多くはハワイや琉球、朝鮮に流れていくんですけど、運悪く黒潮に乗り、ロシアのアリューシャン半島のアムチトカ島に着いてしまったんですよ。

漂流期間はおよそ7ヶ月間。
漂流中は命を落とす可能性が高いので、精神的に追い詰められて乗員同士喧嘩になりがちです。
しかしこの漂流では光太夫が強いリーダーシップを発揮したんですね。
飲水一つとっても、樽に鍵をかけて、全員に「一日これだけ」とみんなで分けて。
そのリーダーシップのおかげで、誰も光太夫に歯向かわず、みんなが彼に従って、漂流を乗り越えたんです。

光太夫が、いかに人間として優れていたかがわかりますね。


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■ロシア語を身につけてて日本に帰ってきた光太夫

ロシアに漂着した光太夫が、まず着目したのが『言葉』。
言葉を覚えないと助からないとわかっていたんですね。
ロシアから帰ってきた漂流者は他にもいるんですけど、ロシア語を完璧にマスターしたのは、光太夫だけでした。
さらにいろんな物を見てそれらをこと細かに記録をつけていました。
『記録魔』というのも、船頭の素質。
航海の記録を全部荷主さんに伝えなきゃいけないという義務があったので、航海記録をかなり細かく付けていたと思うのですが、ロシアでそれを続けていたようですね。
それらを日本に帰ってきてから、大きく還元しています。
世界地図もその1つで、世界がどのようになっていて、日本がどの位置にあるのかを示したのも光太夫です。

当時は日本とロシアとは国交がなく、船を出してもらうことは民間では不可能。
一般人だからと、すぐに帰られる時代ではありませんでした。
帰るルートがまずありません。

実は、光太夫の前にロシアに漂着した人は何人もいたのですが、帰ってきた人はいませんでした。
アリューシャン列島やカムチャッカ半島は、お米などが全く取れない土地なんですが、ラッコがたくさん住んでいて、毛皮産業が盛んだったんです。
そのため、ロシア人がたくさん来るんですけど、彼らに食べ物を運ばなきゃならない。
その食料をペテルブルグから運ぶよりも、日本から運んだほうが近いので、日本と貿易をしたいという思いがロシアにはずっとあって、光太夫よりも前に漂着した人は、みんな日本語学校の先生にされていたんです。
光太夫も日本語学校の先生になりなさいと命令されるんですが、断るんですよ。
で、直接エカテリーナ1世に直訴すると言って、ペテルブルグまで行くんです。

エカテリーナは光太夫と会って、日本語を話せるロシア人を育てるよりも、光太夫を駒として日本へ来航し、貿易を開始させる時期になるのでは、と判断して、彼を日本に帰すわけなんです。

でもそこにも光太夫の人間性を、エカテリーナは見抜いていたんじゃなかな、と思っています。


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■『光太夫を生んだ船文化 ~白子廻船とその周辺~』

9月21日から、大黒屋光太夫記念館で『光太夫を生んだ船文化 ~白子廻船とその周辺~』が始まりました。

光太夫の過去については、漂流する前は一般の船頭でしたので、ほとんど記録が残っていませんでした。
先日、光太夫の船が乗っていた船』『神昌丸』の持ち主であり雇い主である、一味諫右衛門の古文書だったと思われる資料を寄贈いただきました。
ふすまの下張りに『光太夫』という名前が見られたので、発見された資料なんです。
中身は、漂流する前の光太夫の船頭としての仕事内容、一味に当てた光太夫の手紙など。
漂流前の光太夫に関する、ほとんど唯一の資料で、しかも光太夫がどんな人間だったのかも、よくわかる資料だったので、これは是非見ていただきたいなと思います。

また、『光太夫』として改名した時に、彼の近しい者から一味に宛てた手紙が出てきました。
これには、光太夫として改名した件と、彼が非常に賢く、身のこなしも軽いので船頭として向いていること、しかし今の世の中、『船頭、船頭』とちやほやされ、驕ってしまう人も多いので、時々は叱ってやって下さい・・・ということが書かれていました。

これは非常に光太夫を大事に思っている人の手紙ね。
光太夫が漂流したのが30歳くらいなので、おそらく27~8歳の頃の手紙だと思われます。
そのころからの、光太夫の人となりがわかります。

大黒屋光太夫がロシアに行って帰ってきた人というのは、小学生で習います。
帰ってきたからすごい、というのもありますが、帰ってきてからもすごいんだよ、ということを伝えたいし、光太夫を育んだこの町の文化にも触れてほしいなあと思います。