FM三重『ウィークエンドカフェ』2015年1月10日放送

今回のお客様は、紀州鋸伝統工芸士『中屋功次鋸製作所』の板垣功さんです。
板垣さんのおじいさんは、東京で中屋流の鋸の技術を学び修行。
その後、林業が盛んなこの場所に移住し、その技はお父さんが引き継ぎました。
功さんは、学校を卒業後、名古屋にある三菱航空機でエンジンを作る技術者として仕事を始めました。
しかし時代は戦争へ。功さんは海軍へ終戦まで航空機の整備をしていたそうです。
戦争が終わってからは地元に戻り、お父さんの元で修行。
鋸鍛冶の職人としての人生が始まりました。

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■鋸鍛冶をはじめて今年で70年目

昔は雑木の山を切って、三尺から四尺に切ったのものを、名古屋などの都会に燃料にするため運んでいたんですね。
父親はその木を切るためのノコギリづくりをする鋸鍛冶二代目で、私が三代目。
私は戦争が終わって帰ってきたところ、ノコギリづくりが忙しいとのことで、手伝い始めて修行となりずっとやって来ました。
終戦後から今年で70年目なので、70年になるかな。

親父には厳しくされました。
大きなノコギリ持って怒られたこともありましたよ。
この幅広いのでやられたら、こりゃあもう大変なことです。
そのせいか普通の弟子さんに比べても、自分は覚えるのが早かったですね。
私には兄がいたので、そちらは兄が継いで、私はこちらでノコギリづくりを始めたんです。
当時の弟子は兄と私の二人。
その前に錦や船津村、奈良県の川上村などから来ていたのが、最初の頃のお弟子さんたちです。
私たちはまだ子ども時分でしたが、その人たちは徴兵されて行ってしまいました。

親父は切れ味一本の人だったので、その人の使い道や、使う人の手を見て、道具を作ってあてがっていました。
私も父親から習った技術を元に、全国へ足を運び、試作品を作っては、何度も山へ行き、使いやすいノコギリへと改良を重ねていきました。
当時はその鋸を使いこなす山師の腕も良かったので、刃渡り300mmくらいの大きなノコギリや、わっぱに丸めて入ってしまうような薄くて軟らかいノコギリでもまっすぐ木を切ることができました。

100人いて、誰にでも合うノコギリというのはなくて、使い方の荒い人と丁寧に見境を見て使う人・・・また、山で働く人の腕もあります。
大工さん用に、検尺鋸の大きいのも作りました。
検尺鋸というのは難しいです、薄くしないといけないので。
使い手が上手いので、薄くなるんですね。
尾鷲の検尺鋸を使う人たちには八分仕上げくらいの厚さので売りました。
渡利の人は腕がよく、薄いのを作りました。

尾鷲ヒノキは木曽のヒノキなどと比べてもとても固いので、それだけの鍛え方をし、焼き入れもしっかりしました。


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■板垣さんのノコギリは海外に住む日系人にも使われた

建築ブームの折は家を建てるのに使うノコギリを作ったし、その前は造船所で船を作るためのノコギリを作りました。
船を作る用に私が作ったノコギリが、アメリカのサンフランシスコや、メキシコなどにも渡りました。
その理由は、和歌山県串本から出発した一世の人たち、さらに二世当時の人たちが、外国のノコギリは厚くて切れないので、日本のノコギリが欲しいのだと。
アメリカのノコギリは力で切っていくものなので、力の弱い日本人には扱いづらく、美しい仕事もできなかったんですね。
昔から和歌山にも奈良にも鋸鍛冶がなかったので、こちらで作って、頼まれた人が運んでいったらしいです。
なので相当な数がアメリカやメキシコに行ったとのではないでしょうか。
技術的には難しいものですが、それをこなして、お客さんに喜ばれるノコギリを提供できたと思います。


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■紀州鋸を作っているのは自分だけ 火を絶やす訳にはいかない

何千枚のノコギリを作ってきたかな・・・。
何千枚と一言でいうけど、そんなに簡単に作れるものではないですよ。
時間もかかるし。
ヨキの場合は2丁雫打って焼き入れて、戻して、先が短くなったのヨキをかけてくれと言われて、足せば良いので簡単だけど。
ノコギリは漉いて漉し直してまた漉いてなんで、ものすごい時間がかかります。
刃物で一番難しいですね。
一番忙しかったのは、終戦後から昭和40年〜50年代にかけて。
それから徐々に廃れていったかな。
それまでは、自分の顔も売れていたし、よその地域・・・奈良県などからもお客さんが来ていました。
自分が卒業した終戦直後は都会でも職があまりありませんでした。
しかし戦争後に再興するため、林業は盛んになったので、山仕事に携わる人が多かったですね。

現在紀州鋸を作っているのは、三重県はもちろん、全国でも私一人。
こんな阿呆なことをしているのは、私一人しかおらへん(笑)
林業が盛んな時は職人さんも多くいたけど、林業が衰退していったことと、チェーンソーが導入されたことで、やめた人が多い。
しかし何故ウチが続けてきたかというと、やはり元祖だから。
その火を消したくないという思いから、食うや食わずでも続けてきたわけです(笑)
それだけですね。
紀州鋸を残したいという一途な思い。
しかしまだまだ、たくさんの大工さんが私を頼ってきてくれます。
ノコギリ以外も作ってくれという人も見えます。
先日も京都の宮大工さんが来ていましたが、ヒノキの皮を剥いだりする道具がほしいと。
それももちろん作りますし、あらゆる面に対応できます。
先日は、革細工を趣味でしている尾鷲出身横浜在住の人から、その革を縫う針を作ってくれとの注文がありました。

常に仕事のことを考えています。
注文を受けた品をうまく作ることができるかな、とか。
慣れた仕事なら良いですが、そうでない注文が入ると、どうしたら満足の行く良い品ができるかを模索して寝られないことがあります。
そのおかげで、この歳になっても頭がしっかりとしているのかもしれません(笑)