FM三重『ウィークエンドカフェ』2015年6月13日放送

今回は鳥羽市畔蛸町にある西明寺のご住職、星見秀栄さんがお客様。
西明寺のある畔蛸町は、『石神さん』で有名な相差町のお隣のまち。
60軒ほどの集落で小さな町です。
西明寺では、星見住職と会話のキャッチボールをしながらお抹茶と和菓子を
いただく『寺de café』がおこなわれています。
お説法だけではなく、歴史のお話、健康や恋愛の相談まで話の内容はさまざま。
まずは心を落ち着かせてお参りから始まります。

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■寺は手を合わせるところ 人が集まるところ

お寺は人が集まるところ、また、手を合わせるところ。
そしていろいろ素直に話ができるところです。
ですから、悩みも素直に話をしたら、その人の気持ちはだいぶ収まると思います。
本当に素直に話せる人は、それだけでだいぶ肩の荷が下りるのではないでしょうか。
しかし、
「自分はこうなんや、悪いところがあってもどうにもならん」
というところは、誰にでもあります。
言われても受け入れることのできないことはたくさんありますよね。
人からわかってもらえないと思うと、自分の気持を心の中に収めておこうという気持ちにもなるんです。

 

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■お茶は客人をもてなすための空間

このお寺を建立するには、檀家のみなさんから大きなご協力をいただきました。
その大切なお寺を締め切って、人の出入りがないというのはとても申し訳ないとの思いから、町の皆さんや観光で訪れる方などたくさんの人が集う場所にしたく、今のスタイルができあがりました。
『寺de café』、では、まず本堂でお参りをしていただいた後、お茶をお出しします。
お茶というものは、提供する側とされる側、お互いに「ありがとう」という気持ちを持つということ。
こちらは受け入れをするために、お菓子を用意し湯を沸かし、お茶を出す。
そして季節の野の花を生けます。
掛け軸には『為君葉々起清風(君が為に葉々清風を起す)』。
みなさんが来た時に、ちょうど爽やかな風が吹いたと、そういう意味の軸をかけています。
そういったものがテーマとして、この茶室にあるわけです。

遠いところから来た友を見送るために門まで来た時に、さわやかな風が吹いたと。
ですから、あなたがここに来て私がそれを受け入れるということで、さわやかな風が吹いていると。
それは外観ではなく、心のなかにそういう思いが芽生えているか・・・深く言えばそういうことになります。
ここで一時の時間を過ごしてもらうことで、爽やかな風が吹いてくれたら良いな、ということなんです。

 

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■北条時頼ゆかりのお寺

歴史的にはここは、北条時頼のゆかりの寺でございます。
北条時頼が出家した時のお寺が『西明寺』というお寺。
ここも西明寺ということで、本堂の真裏に、北条時頼公をお祀りしています。
私もかつて鎌倉にいまして、北条時頼公ゆかりのお寺ということで、現在こちらにご厄介になっているのです。

実は、身分を隠して全国をまわり、六四州を行脚した『時頼伝説』というのが存在します。
そして畔蛸町には地名として『頼の浜』『頼の田』『頼山』というのが残っているのです。
ここに来たかもしれないと思うと、まんざらでもないですね。
来た可能性として考えられるのは、畔蛸町は安乗の避難港だったという歴史的事実。
台風が来ると的矢牡蠣の船がよく入っています。
昔は動力は風しかありませんでしたので、中国から来た九州に来た文化が、鎌倉に行く道中、船が壊れたり風がなかったり台風が来たり・・・そんな時にここに停留していたと考えられるんです。
そこで何かの因縁で、鎌倉幕府の関係があったのでは。
だからこそ時頼公をお祀りしたのではないかな、と考えています。

また、時頼公の師匠が中国に帰るときにも、鳥羽から船に乗って帰っていったそうです。
そのこともあるので、やはり歴史的な因縁があるのではないでしょうか。

実は、『いざ鎌倉』という言葉は、北条時頼公が言った言葉なんです。
これは六十余州を渡った時に、鎌倉の忠誠を探るという意味もあったとの話です。

 

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■座禅は自分を見つめること

先日、介護の職員の方々がグループで見えました。
介護の現場では、治っていく方は多くはないでしょう。
認知症の方もいる、いろんな方がいます。
その中で、いかにして一瞬一瞬をその方に「ありがとう」と言ってもらえ、自分もよくやったなという気持ちになれるか、お話をさせてもらいました。
苦労といったらおかしいですが、『生きがい』というものはいったいなんだろうということをお互いに考えました。
そして、自分たちがどういう気持で介護にあたっているか、を素直に聴かせていただきました。
実は私の母も一昨年前、92歳で亡くなりました。
介護スタッフの方々と、母の見舞いに行った時に話すと、
「今日ご飯食べましたよ」と。
小さな茶碗一杯、全部食べたと。
そこに喜びがある。
「今日はニコッと笑いましたよ。
そこにまた喜びがある。
介護の方々が、その一瞬一瞬の喜びを感じてしてくれているんだと感じた時、一瞬と喜びとはどこにあるのだろうと思ったりしました。

グループで来られた介護職員さんたちは、「またがんばります」と言って帰って行きました。

いろいろな方がいらっしゃいます。
ガンの告知を受けた方、事業をするかしないかという方もいます。
先日は名古屋の女の子が4人で来て、座禅を学びたいと。
インターネットを見て来たそうで、座禅を指導してお茶を出し、話をしました。
何故こんな田舎まで来たのかを聞いたところ、この4人で会社を立ち上げたいのだと。
そのために座禅を学びたいと。
若い方はすごいですね。
座禅の仕方を教えましたが、座禅というのは自分を見つめることなんです。
自分はいったい何を尊び大切にしているんだろう・・・自分を見つめてみると、自分というものが見つめられる。
自分が大事にしているものが、本当に大切なものかと見つめてみる。
瞑想というのはそこから来ているんですね。
やはり大切だとわかればそのままで良いし、つまらないものだなと思えば、その場で捨てていけばいい。
そうすることで無駄なものをなくしていくと、人間、生まれた時の人格が表れてくるんじゃないでしょうか。

 

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■聴くということは相手を認めること

年を取り、老いてくると孤独なんです。
けれど、誰にでも今までの人生の思い出がいっぱいあるんですよ。
そうなると聞き役になるということが必要なんです。
例えば80年の人生を生きてこられた方が、どういう人生を送ってきたのか、若い時の様子などを聴かせてもらうことで、その人のリフレッシュになるのではないでしょうか。
そして「聴く」というのは、相手を認めることだと思いますね。
その人を認めているから、聴いていると。
よく家庭の中では、年を取ったお父さんが何か言うと、娘や息子が「お父さん、それ何度も聞いたから!」とか、あるでしょう。
寂しいですよね。
「そやったねえ」と受け入れてくれたら、どれだけ嬉しいでしょうか。
おじいちゃんおばあちゃんが何度同じ話をしても、「そやったねえ」と言ってあげることで、認めて、聴いて、同調する。
そこにひとつの接点があるんじゃないかな、と考えています。

「それ前に聞きましたよ」と言うと、人間関係をシャットアウトすることになっていまうんですよ。
そうでなくて受け入れるという気持ちを持って、話を聞く役。
しかしこれが意外と難しいんです。
特にお寺に来るおばちゃんは話が長くて(笑)。
用件自体は10秒くらいで終わるのに、ああだのこうだの言ってね。
それでも、この話はまだ聞いていないな、と思った時はその先を促したりして、時間が許す限り話を聴きます。
その人がやっている畑について聴いて、イノシシが来て大変だったんさ〜とか、
キュウリを作ってるんや、とか。
そこに信頼関係が生まれるというかね。
道で会っても「キュウリできた?」「できたよ〜」って、そのやり取りだけで明るさがあるでしょ。
そういうやり取りの中に、構えて話さなくて良い、日常生活でにこりと笑って生きていける原点があると思いますね。

人生と山登りは一緒。
いろいろなルートがあるけど、一番楽なルートを行く人もいれば、いやいや待てよ、ここに足をかけてこう行ってこう行ってこう・・・と、自分で考える人もいますよね。
頂上は一緒なんだけどね。
人間は楽な方へ流されていきがちですよね。
しかし人生みな楽な方楽な方へ行くと、そこには落とし穴があることがわからないんですよ。
苦労するかな〜と思っていた方は、案外そうでもなかったり。
本当に人生はわからないですね(笑)

 

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