FM三重『ウィークエンドカフェ』2016年2月20日放送

今回のお客様は、関宿の『深川屋 陸奥大掾』の服部吉右衛門亜樹さん。
深川屋さんは、徳川三代将軍、家光の時代から関宿にお店を構えています。
創業370余年。
銘菓『関の戸』は江戸時代と変わらない配合と作り方を守り、江戸文化を伝承されています。

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4代続いている『関の戸』

関宿にあるお菓子なので『関の戸』といいますが、実は『関の戸』はいろいろな世界に同じ名があるのです。
謡曲や歌舞伎、さらに相撲取りの四股名にも残っています。
私が思うに、『関の戸』という言葉自体に、江戸時代の人々がイメージできる何かが会ったのではないでしょうか。

本当のところはわかりませんが、私たちに伝えられてきているのは、ここには千数百年前の古代の関所があり、その関所の扉を指したのではないかと伝えられています。
『関の戸』には誰もがそこを通る場所で、みんなに食べてもらいたいという願いが込められているのかもしれません。

私の名前である吉右衛門亜樹の『吉右衛門』というのは、代々襲名している名前で、5代目6代目頃から吉右衛門を名乗っています。
あとを継ぐと、この名前を継ぐことになっています。
私は14代目なので、『十四代』という美味しい日本を使って襲名披露をしたいと思っているのですが、昨年11月に代が変わったばかりでまだ間もありません。
これからいろいろ考えようと思っています。

襲名という日本文化は、今の時代は忘れ去られていますが、昔は酒屋さん、お菓子屋さんなど、襲名で商売を継いでいた人が多かったんですね。
私がこの時代に襲名をしようと思っているのは、江戸の文化を次世代に継承したいという気持ちが強くあるからです。
この家に生まれた時から、この商売を継ぐことが約束されていたので、職業の選択の自由はありませんでした。
反発した時期もありましたが、意外とすんなり商売に入ることができました。
13代も続いたのは凄いことだと思いますよね。
しかし私の祖母が口癖のように私に、
「うちが13代続いとんと違うんやに。お客さまが続いとるんやに」
と言っていました。
そうなんです。
お客様が13代、14代と続かないと、この商売は続かなかったんです。
その気持ちを忘れたらいかん、と、よく言われました。

 

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の作り方を現在もずっと守り続け

一子相伝といいますが、まったくそのとおりです。
今のレシピの元になっているのが、『菓子仕法控』という1780年に書かれた配合を忠実に守って作っています。
だから今でも『キロ』ではなく『何貫何匁』の天秤秤で量っています。
キロに直せないんですよ。
これはやはり見て覚えるもので、ちょっとやそっとでは覚えられません。
その日の気温、次の日の気温と天気、そして湿度がとても大切で、水分量と火加減が毎日違うのです。
これはやっぱり、先人の知恵というか、あらゆる状況に対して、手で覚える、身体で覚えないと付いていけない部分があります。

ある時、突然父が倒れ、私一人で作ってみたところ、まったく作れないんです。
昨日まで何も疑問を抱かず、2人で作っていたのが、1人になった途端にできなくなった。
朝3時から餅を炊き始めているのに、餅が餅にならないんです。
同じやり方をしているのに。
そろそろ職人さんたちが出勤してくる時間なのに、まだできない。
とうとうその日は店を閉めて、どうしたら良いのかと、何回も何回も炊き続けました。
しかし全然できない。
もう、涙が出てきて。
夕方5時過ぎにできあがったお餅が、やっと少しお餅になったかなと。
それほど難しかったのです。
だから、次にこれを伝えるのをどうしたら良いのか本当に悩んで、マニュアルを作るべきだと思いました。
そこで科学的な方法を取り入れました。
糖度計と赤外線の温度計を駆使して、ずっとデータを取ってみたんですよ。
そうしたらなんと先人が、やってきた手法が理にかなっているということがちゃんとデータで証明されたんです。
これは鳥肌が立つぐらい、ビックリしました。

今、私のもとで息子と娘の旦那さんが学んでいます。
伝統の味をしっかりと受け継いでほしいですね。

 

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戸時代には『深川屋』でもいろいろなお菓子を販売

深川屋では代々『関の戸』という餅菓子のみを作ってきました。
跡を継ぐ時に「関の戸の味を変えるべからず」という文上に血判を押さなければならないんです。
しかし、実は2年前に掟を破ってしまいまして。
三重県とのコラボで、亀山茶を使って渋みがとても効いた『関の戸』を販売しました。
3ヶ月くらい親父に口をきいてもらえなくて・・・それでも最後は父には配合を任せて、許してもらいました。
しかし『関の戸』は基本、変わっていないです。
これまで私と妻で開発した『関の戸アイス』も『関の戸』を使っていますし、『関の戸あんぱん』も『関の戸』が入っていますし。
別物は作っていないです。

これまでずっと他のお菓子を作ってこなかったのは、かたくなと言うよりも、おかげさまで『関の戸』だけで食べてこられたので、そういうことに手を出さず必要がなかったのだと思います。
和三盆という高級なお砂糖を使っていたこともあり、うどん1杯『関の戸』1つが同じ値段だった時代もあったそうです。
しかし明治に入り、お砂糖の値段が下がった時代に、今まで買えなかったお客様たちからどっと注文が入るようになり、その流れが戦後も来ていまして、『関の戸』だけで手一杯だったんですね。

実は江戸時代の1600年代後半から1700年の頭、6代目7代目あたりがいろいろなお菓子を作っていたそうなんですよ。
お公家さんや大名や朝廷にお出しする、高級なお菓子だけを作っても食べていけないので。
この街道には、日に1万人もの往来があったと言われていますので、その人たちに向けての商売もしていたそうです。

 

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開してきた子供たちに正月、『関の戸』をふるまった曽祖父

ここ関は、戦時中の疎開先だったんですよ。
関のお地蔵さんのところで、みんな生活していたそうなんです
戦時中なので『関の戸』の製造も2年ほど止めていたのですが、昭和19年のお正月に、私の曽祖父が「疎開先で苦しんで子どもたちが生活しているのだから」と、闇市に行って材料を仕入れてきて、疎開の子どもたちに『関の戸』をふるまったそうです。
その時に『関の戸』をもらったというおじいさんが、なんと3年前にお店に来られました。
あの時に食べた関の戸が忘れられないと。
もう一度食べたいと思い来店されたんです。
嬉しいですが緊張しましたね、私。
もし味が違うと言われたらどうしよう、とドキドキしました。
その場で召し上がっていただいたら、涙をボロボロと流されて、「この味でした」と。
家業を継いでいて良かったと思った瞬間でした。
この町の佇まいもおそらく当時とあまり変わっていなかったでしょうし。

ここは伝統建造物保存地区として国から選定を受けています。
三重県ではここ1ヶ所だけですし、東海道五十三次でもここだけと、非常に貴重な地区です。
みなさん生活しながら保存をしているのが特徴なので、少しずつ時代に沿っている部分もあるのですが、風景はあまり変わっていない。
そういう町で商売できるということは、やはり幸せですね。

時々、東京など離れた地方の方からお電話いただくことがあります。
先日は「私の母が危篤で、最後に食べたいものが関の戸だといっていますので、是非送ってください」と。
こういうことが1回や2回ではないのです。
そういうことを経験すると、泣けますし、しっかり作らないといけないなと、思いを新たにします。

4月には、全国銘菓連盟に入っている三重県の4社、津の平治煎餅さん、松阪の老伴さん、伊勢の赤福さんと一緒に日本橋の三越で開催される全国銘菓展に出展します。
記念すべき70回大会です。
三重の味を、東京をはじめ全国各地の人たちに届けたいと思います。