『第57回 鹿児島県(薩摩藩:島津)関ヶ原跡踏破隊』のお知らせです。

 

昭和35年に始まり今年で57回目を迎える『関ヶ原跡踏破隊』のいなべ市内踏破行事の完歩を記念するお迎え隊が結成されています。
今年も、鹿児島の子どもたちが、岐阜県の関ヶ原からいなべ市を通り、多賀町、大阪まで踏破します。この催しは、関ヶ原合戦時における、島津の武士たちの退路を実際に歩くものです。

 

日時 平成28年8月5日(金)

  9時20分~9時35分  駒野 中腹神社
           →二之瀬峠→養老山脈
  10時10分~10時半  桜番所 鳥居
  11時50分~12時半  宝林寺
           →東貝野地内→貝野川
  13時15分~13時半  高圧鉄塔下
           →畑毛地内→慶楽寺→二ノ瀬川
  14時~14時20分  田辺子供広場
           →多奈部神社→田切川(川原橋)→川原地内
  15時~15時20分  佐野家
           →養泉寺 
  16時~16時20分  かなえ塚
  16時20分~16時35分 岐阜県上石津 上多良・時(下山)

 

なお、8月6日は上多良公民館前で一行を迎え、島津豊久自刃の地まで歩く、健康歴史ウォークを開催します。
※関ヶ原跡踏破隊は、鹿児島県日置市の小学5年、6年、中学1年の12名と、随行指導員5名の総勢17名の予定です。

 

★私たちの旅(関ヶ原跡踏破隊の目的)
私達は、鹿児島の青少年で、温故知新の旗をかざして、陣羽織の勇壮な姿で、昭和35年から毎年、岐阜県の関ヶ原から多賀町、大阪まで踏破しています。
慶長5年(1600年)に、天下分け目で有名な関ヶ原合戦で西軍は、東軍に敗れて、伊吹山方面へ逃げましたが、私達の先輩、薩摩の武士達だけは、頑として抵抗し、最後には敵に後ろを見せるのは、武士の恥とし、正面の敵の中央を突破して、四日三晩、大変な苦難を克服して、大阪の堺まで辿り着きました。その時の祖先の勇気と根性を忘れぬように、今でも、毎年関ヶ原合戦を記念して、約20kmの片道、あるいは往復を歩いてお参りしてます。
又、一方、町内の青少年、千数百名が炎天下に鹿児島から伊集院までの妙円寺詣大行進も年々充実し、伝統的行事になって来ました。
私達踏破隊は、夏休みを利用して、慶長の関ヶ原戦を偲び、島津勢退路の駒野峠~島津越間の75kmを2日間で踏破して、関ヶ原戦、自己鍛練の貴重な体験学習の旅であり、また、この伝統行事を後輩に継承して行く使命を持つ旅でもあります。

★薩摩義士の墓参りをします。
木曽川、長良川、揖斐川は昔は度々大洪水で家や田畑を流し、沢山の人命を奪いました。その対策として、徳川幕府は宝暦3年、薩摩藩(今の鹿児島県)に治水工事を命令しました。薩摩藩からは、千人位の人が工事に行きましたが、苦労と流行病の為30余人が病死し、そして50人位が切腹し、工事は難航し、驚くほどの工事費がかかりました。生き残った人達は、人間愛と責任感と根性とで、一年余りで立派に仕上げました。完工後、総奉行、家老の平田靱負は、莫大な藩費の消費と愛する多くの部下を亡くした責任を感じて、現地で切腹しました。
河川周辺の何十万人の人達は、工事完成後は平和で豊かな暮らしが出来ました。
現地の人々は、散在している寺や神社に眠る薩摩の霊を、薩摩様として祀って大事にして下さっています。
治水神社の春秋祭には、㊉の薩摩義士のハッピを着て地元住民は勿論、鹿児島や関東関西から沢山の参拝者で、感謝祭が開催されます。薩摩義士の墓参りを通して、その偉業を学びたいと思います。

 

写真 大垣市上石津町のブログ「ふるさと日記 たらの芽」 
http://kamiishizutara.blogspot.jp/search?q=%E4%B8%8A%E5%A4%9A%E8%89%AF%E3%80%80%E5%B3%B6%E6%B4%A5


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