FM三重『ウィークエンドカフェ』2019年3月30日放送

今日は皇学館大学名誉教授の岡田登さんがお客様です。
岡田先生の研究分野は日本考古学、日本古代史、神宮史。
大紀町錦のことについても深く研究されています。

成5年に錦の調査研究を始めた

平成5年に、錦の遺跡について調査してほしいとの依頼がありました。
しかしそれ以前から、神武天皇が上陸した場所として古事記や日本書紀で錦の話は知っていましたし、考古学的にもいろいろな鏡や勾玉が出土していると知っていました。
私自身も実際、錦に出向いて調査したいと考えていたので、町の方から要請があり来られたのは幸いでした。
町史の編纂が始まり、5年ほどかけて、平成13年に『紀勢町史』を作りました。
そのときに考古学の部分と古代史の部分の資料の編纂を担当させていただきました。
一番最初は、錦小学校で神武天皇の話をして欲しいとのことでお邪魔しました。
その時は驚くことに100人くらい、いまだかつてないくらいの人が来てくれて非常に盛り上がりました。
錦小学校の2階が郷土史料室のようになっていて、そこに考古資料が残されていました。
私自身、すべて見終わっていないので、すべて見ようと思って、町の人と一緒にすべて写真に撮り、町史の編纂にあたりました。

 

弥呼がもらったという鏡が発見されている

錦地区には遺跡や古墳がたくさんあり、そこから発掘される出土品を見てみると、この地区が中心的な場所だったことがわかります。

一番注目されていたのは『三角縁神獣鏡』という鏡です。
これは魏の皇帝から卑弥呼がもらったと言われている鏡のもっとも有力なんですが、最近は違う説も出ているようですが・・・。
皇帝からもらった鏡を、日本で真似して作った『仿製鏡』という鏡なんですね。
鏡が作られた時代を調べていくと、だいたい4世紀の末だろうと。
三重県内でも考古学者は鏡の存在を知っていたのですが、なぜそれが錦から出土したのか、非常に不思議だったそうです。
もしかしたら骨董屋さんから買ってきて、置いてあるんじゃないかという話もあったくらいです。
錦の人からしたら、鏡があるのは知っていたけど、海賊行為というか、通りすがりの船を襲って、それを奪ってきたのかもと思っている人もいて。
だから地元の人も歴史的価値が分かっていないし、三重県内の考古学を研究している人にも謎だったんですね。
錦から出土しているものの、実際出てきた場所がはっきりわからないというのもありました。
この『三角縁神獣鏡』の他にも古墳時代の鏡があと3面出土していて、そのうち1つは東京国立博物館に収められています。
さらに似た鏡も4枚出ていて、首からぶら下げる勾玉もいくつもでていますが、祭祀に使う『子持ち勾玉』という大きな勾玉に小さな勾玉が付いたものが3個見つかっています。
三重県内でもこんな狭い範囲で3つも見つかっているのは、錦しかないんですね。
先ほどお話した『三角縁神獣鏡』も紀伊半島、和歌山市をのぞいて熊野灘をずっと通ってきたら、伊勢湾まで来ても、出土しているのは錦だけなんです。
鳥羽も出ていないし、志摩にも出ていません。
非常に特異な状態で出ています。
これはもっと後の時代になるんですけど、半島から技術が伝えられて作られたのが『須恵器』という灰色の焼き物なんですが、その直前の焼き物である『韓式土器』が調査で2点出ているんです。
つまり錦には当時、最先端の手に入れる集団が存在したということなんですね。

 

の神を鎮めるために鏡をささげた

町史を編纂したとき、錦から膨大な考古資料が出ているんです。
その資料は縄文時代のものもあるし、弥生時代のものもありますが、一番多いのは古墳時代のもの。
特に古墳時代の後期、6世紀台まではあります。
しかし7世紀後半の飛鳥時代や奈良時代のものもないのです。
今度出てくるのは平安時代の後半から、ものすごい量が浜辺で拾われています。
ちょうど奈良時代の終わりから平安時代のはじめ頃、そのあたりが欠如しているんです。
それを考えていくと、天武天皇の13年の年に『白鳳地震』というのが起きているんです。
この地震が690年より少し前なんですが、南海トラフ大地震だったそうなんですよ。
錦の海岸にいた人が、大津波を受けて内陸部の大内山や柏崎の方へ移住したのではないかと。
地震のたびに移住していたのではと考えています。
南伊勢町で『阿曽浦』という地名が海辺にあって、大紀町には『阿曽』という地名があります。
錦という地名に関しても、大内山側には『錦谷』『錦越』などの地名が残っています。
だから平安時代と奈良時代の頃の人は、津波の被害を受けて内陸部へ逃げて、漁業のときだけ海へ行く・・・という形をとっていた可能性があります。
多分その時の『海獣葡萄鏡』は海の神を祀るために、鎮めるために奉斎したのではないかと考えています。
お墓に入れたのではなく、海の神を鎮めるために、とても大切な鏡を、それも3面も海の神に捧げた。
逆に言うと、錦という場所が大和王権にとって極めて重要であったと。
天皇家にとっては祖先の神武天皇が上陸した土地としての意味付けがあったのではないだろうか、と私は考えています。

 

咫烏は神武天皇を大和の地へと導いた

神武天皇とその軍が東征中、熊野で悪神の毒気により倒れていたところ、『熊野高倉下(くまのたかくらじ)』という人が出てきて、『佐士布都神(ふつのみたま)』という剣をいただいたところ、倒れていた兵士たちが力強く立ち上がったと云われています。
しかし立ち上がったといっても、山の中というのは誰もルートを知りません。
このまま進んで大和に到着できるかどうかわかりません。
そこに八咫烏が出てくるんです。
八咫烏は大きなカラスという形。
カラスとは言っていますが実は『建角身命(たけつのみのみこと)』という人間がカラスの姿をして出てきたという話なんです。
橿原市や桜井市で出土した弥生時代の土器を見ると、人間が鳥装した絵が描かれています。
カラスは実は、太陽の精なんです。
中国の漢の時代から、すでに太陽の中にカラスがいると書かれています。
しかも三本足のカラス。
なぜ太陽の中にカラスがいるかというと、太陽黒点が強烈に大きく出たことがおそらくあって、それを中国の人が見て「太陽の守り神はカラスなんだ」と。
天照大神の子孫である神武天皇が錦にやってきて、錦戸畔を討ち平らげて、さらに内陸に行こうとしても道がわからない。
そのときにカラスが現れたということは、まさに太陽の遣いがやってきてくれたということ。
そういう物語が明らかに書かれていると思います。
日本書紀や古事記を読んでいると、宇陀のところで出てくるのが、『丹生川上』。
多気町にも『丹生』という地名がありますが、実は伊勢国は水銀の大産地だったんです。
宇陀も水銀の大産地なんですね。
なのでおそらく、実際に八咫烏といわれている集団は山の中に入って、鉱物資源を探る能力を持っていたのだと思います。
野を越え山を越え、自然の道を知っていた。
その人が神武天皇を大和へ導く、という流れがあったのではないかと思います。

私たちの先祖が書いた歴史書には、かなりデフォルメされ物語化したものもありますが、真実はやはりどこかに残っていると捉えたほうが良いですね。