櫛田川の上流、松阪市飯高町波瀬に陶芸空間、虹の泉があります。
5600㎡の敷地は、すべて陶芸作品。
陶芸家、東健次さんが35年をかけて築いた場所です。
健次さんは2013年に亡くなりましたが、今は、奥様の東良子さんが管理をしています。
山
を削るところからこの場所を拓いた
不思議だなとか、ここは一体なに?とか。
外国の方は「Amazing!」と驚かれますね。
この作品そのものは35年かけて手づくりで作ったものです。
地形も、それこそ一輪車とツルハシで地面を削りながら、山を2つ、手づくりで築きました。
普通だったら重機を使って掘り起こして山を作りますが、芸術の世界はバランスを細かく見て、時間をかけてゆっくり作っていくというのが本人の目的だったので、手づくりで創り上げたようです。
サポートというか、とりあえずは創作の35年間は、アトリエから虹の泉までの往復。
それからお弁当を作ったり助手みたいなことをしてきました。
1年間のスケジュールが大体決まっていて、4月から5月にかけては作品の取付工事。
6月に入り梅雨時になるとアトリエに戻って創作と、窯を使った窯焼き。
夏になると暑くてセメント工事ができないので、またアトリエで創作活動。
秋になったら、また窯を焼いて、9月10月には虹の泉で取付工事。
毎年毎年、そのパターンで繰り返して35年、創作活動を続けてきました。
虹
の泉は見に来る人の人生の物語になっているよう
冬は寒く、作品が凍らないように家中の毛布をかけていたこともありました。
泉の床に敷かれている小さなタイルもすべて手作りです。
その作品を見に来てくれる多くの人たちがいます。
何度もお越しに来る方は、見る位置が決まっている方や作品が好きな方、天気によってもさまざまな味方ができます。
また、見る方の体調もあります。
「今日は落ち込んでいるので『虹の泉』にパワーをもらいに来たんだ」という方もいます。
また、恋人ができて喜びを分かち合いたいから来たという人もいました。
その人は小さな頃から両親と何度も『虹の泉』に来ていたんですね。
自分の歴史を『虹の泉』と重ね合わせて…その人の物語かなあ、なんて思ってお話を伺うこともあります。
『虹の泉』は未完の完成ですね。
無くなる少し前に、あと何年くらいで完成するかなあと聞いたことがあるんです。
その時は、あと10年くらい。生きていたら。
と聞きました。
でもそれは、神様がくださる命ですからね。
亡くなったときがその時なのかな、と思っています。
こ
の芸術空間が人の喜びや励ましになっているのが嬉しい
何のために作っているの、と周りの人からよく聞かれました。
信念を持って、74歳まで作り続けられた作品。
訪れる人の気持ちを聴くことが私の喜びですね。
『虹の泉』という芸術空間が、みなさんの喜びや励ましになっていることは、芸術としても珍しいんじゃないかなと思います。
35年、一人の人間が一生懸命作ってきたというものが、みなさんの人生観などに重なって来ているのかな。
創作活動は終わってしまったのだけれど、目的を達成したのではと思います。
この作品は、作っているときから夫が、「人類に捧げる花束だよ」と言っていました。
芸術がみんなの心の中に、少しでも広がっていけば穏やかなものが生み出されます。
芸術は一般的に生活と離れているでしょう。
でも『虹の泉』はとてもみんなに近い存在になってほしい、と言っていました。
今、このような形でみなさんに見ていただけて、みなさんが良かったと思ってくれたら私も嬉しいですね。
貧
しい国でさまざまな経験をし、今、自由に生きている自分を表現している
この作品を作って35年になりますが、こんな作品を作ってみたいなという思いにかられたのが14〜5年あり、飯高町の波瀬にたどり着くまでにすでに、何年かたって、それから『虹の泉』を創り始めました。
だいたい50年くらいかけた作品だと言えますね。
世界中を旅して、海外青年協力隊でフィリピンに行きました。
非常に大変で、雨季が来ると食べ物もなくなるような、そんな村に滞在したり。
貧しい大変な国、豊かな国、いろいろな経験をしました。
この作品を作るにあたって、本当に最低限の生活をしてきましたが、「耐えられるのを知っているかい?」と言うのはよく言われました。
経済的にも大変でしたが、自分たちは高い空をガソリンもなく滑空している飛行機なんだよ、と。
いつ落ちてもしょうがないけど、とりあえずは滑空しているんだと。
経済的には大変だけど自由に生きていると、自分たちを表現していました。
今となって振り返ってみると、本当に、よく耐えたなと思います。
こんな素晴らし人生は、もう二度と経験できないでしょうね…。