FM三重『ウィークエンドカフェ』2013年12月7日放送

現在の三重郡川越町は交通の要として多くの車が行き交うところでもありますが、昔は田園地帯が広がり、うなぎの養殖も盛んだったそうです。

今回のお客様は川越町教育委員会生涯学習課主事の、鷹羽望さん。
文化財に携わる仕事がしたくて、今のお仕事に就かれています。
川越町の文化・歴史のことについてお話ししてもらいました。

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■『川越町』の名前の由来と『郷土資料館』について

元々、江戸時代から続いていた村が朝明川を越えて9つあり、合併する際、川を越えて合併するということで『川越』となったと記録が残されています。
地区としては、朝明川、豊田、豊田一色、高松村のあたりですね。

現在、資料館があるのは堤防の上です。
建物自体は昭和33年に診療所として建てられたものですが、その診療所が移転した関係で、平成6年に今の資料館をオープンし、みなさんからいただいたものを展示しています。
川越町の郷土として一番紹介したいのは、漁業関係、それから農村地帯なのでで、農機具やみなさんが普段使っていたものなど。
これらを、いかにみなさんに魅力的に映るよう展示できるのかが課題です。
川越町の名家である内田家の古文書や、桑名の殿様からいただいたと伝わっている着物なども展示しようと思っています。
川越町は平野なので、もともと稲作が盛んだった地。
数十年前の写真を見ると、一帯田園地帯です。
地元の方にお話をうかがっても、向こうまで何もなかった・・・とかいうお話は聞きますね。


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■珍しい『足上げ祭り』

川越町の指定文化財になっているのが、桑名に端を発した、豊田地区豊田一色地区、天神地区の『石取祭り』。
それから高松地区の『足上げ祭り』、亀須地区と当新田地区の『稲熱(いもち)』、虫送り行事。
『石取祭り』は、この地域の庄屋であった大塚家が、桑名の『石取祭り』の祭り車を買い入れ仮装行列をしたことが始まりと言われています。
『足上げ祭り』は非常に面白いお祭りで、青年団の人たちが『しんばしら』という柱の周りを、たいまつをかついでグルグル回るんです。
その時におそらく足を上げていたので、『足上げ祭り』と呼ばれたのだと言われています。
現在は後継者の問題で、あまりその様子は見られないので、調査中です。
『しんばしら』は神社の境内のど真ん中に立てられた2mほどもある太い丸太なんですが、宮司さんに聞いてもいろいろな説が合って、はっきりわかっていないそうです。
夕方から太鼓と鐘で、虫送りというか田んぼの道を歩きますが、このとき時、子供がかかしのような格好で背中に竹の棒と藁を下げて、ずっと歩いていくんです。
今は公民館から神社まで練って歩いています。
神社に入ったら藁に火をつけたものを若者が持って回るという、とても勇壮ものです。

祭りの存続が危ぶまれるほど人が減ったかというと、実は、川越自体はそれほど減っていないんですね。
しかし、お祭りを継承していく組織や団体の人数が減っている状態なのです。
祭りの中心となる青年団や、それを指導する上の方との繋がりを継続するのがだんだん難しくなっていますね。

それでもぜひ、地区のお祭りがある時期に川越に来ていただきたいです。
『石取り祭り』は7月下旬、『稲熱(いもち)』はその前週が多く、『足上げ祭り』は毎年8月14日と決まっているので、その時に足を運んでくださると、にぎやかな町の様子が見られると思います


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■伊勢湾台風を経験した人から話を聞き伝えていく

現在、町の人口は、およそ14000人。
その人たちにこの町の歴史で、しっかりと伝えていかなければならないことがあります。
それが伊勢湾台風。
来年は伊勢湾台風から55年。
記憶が風化しているのも事実です。
みなさん高齢になっているため、「もうあんまり覚えていないんだけどね」と言われる方も多く、わかる範囲で良いからと、お話を聞かせていただいます。
町内では死者・行方不明者合わせて174名が犠牲になりました。
当時の人口が約8000人でしたので、本当に多くの方が犠牲になったんです。
そして被害を受けたのはおよそ92%。
ほとんどの方が被害を受けたような状況だったそうです。
普段では考えられないような距離を一気に流されたなど、私にとっては衝撃な話も多く、本当に驚愕しました。
最近の聞き取りで、「周りの方どうされてましたか?」と聞いても、みなさん、自分たちのことだけでいっぱいいっぱいで、周りのことは何も覚えていない言われます。
その言葉に、どれだけ被害が大きかったのかが、わかりました。
伊勢湾台風について、被害に合われた方の話などを、小学校の子供たちに、順次伝えていきたいですね。

水が来た跡は、町内に何カ所か残っていますが、建物自体はもうほとんど残っていません。
文化財は何百前のものばかりでなく、こういったものも調べて、後世に伝えていくべきだと思います。


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■川越はとても古くから人が暮らしていた

川越町の伊勢湾岸道と国道23号線あたりを走っていると、本当に近未来のようです。
立体高速があって、火力発電所があって、新しい町のようで・・・。
けれど、実際はとても古い、素朴なたたずまいを残す町なんです。
それは実際に来て、歩かないとわからないですね。

川越は、はまぐりやあさりがよく採れる場所で、その貝を扱うお店がたくさんありました。
『ししび』と呼ばれる貝は、この町の人たちにとても愛されていて、『ししび飯(めし)』という郷土料理もあるんですよ。

そして川越町の歴史を感じるものとして挙げられるのが、『八十積椋(やそつみくら)神社』。
平安時代に律令の細かい決まりを書いた『延喜式』というものがあり、その中の神社の名前を記した『神名帳』に、豊田地区の『八十積椋(やそつみくら)神社』も出てきます。
これが川越に関して残っている記録では1〜2を争う古さのものです。

『八十積椋神社』、「やそつみくら」の文字のごとく、元々は米を納める『倉』で、伊勢神宮にお米を納める時に用いる『枡』が宝物として残っていたと伝わっているので、何しらの倉やお米に関するところから名前が付いたのではと言われています。