新熊野学講座 「先人たちの軌跡~上北山村と尾鷲町を結んだ生活道と鉄索」

■内容

開催日 令和5年8月5日(土)
時間 午後1時30分~午後3時30分
場所 熊野古道センター交流棟大ホール(または展示棟映像ホール)
参加料・入場料 無料
定員 100名(事前申込制、先着順)
募集受付期間 令和5年6月20日(火)~8月4日(金)
講師 橋本 博(熊野古道センター副センター長)

 江戸時代、奥熊野尾鷲組と称した尾鷲地方は紀州藩による林業政策が進み、森林開発の奨励と個人が自由に山に木を植えることを許す「植え出し権」など私的所有林を認め、寛永元(1624)年には初めて人工造林が行われた。当地方は、リアス式海岸という恵まれた港湾により古くからの海運業が発展し、切り出した木材や製材品は主に江戸に運ばれ、声価が高まった。一方、山林から海までの運材については、紀伊山地一帯は深く刻まれたV字谷の急峻な地形で形成さているため相当な苦労を強いられた。
  明治末期、土井家および町内の林業家が出資して三重県と奈良県にまたがる又口と上北山村東の川出合地区との間に当地方ではじめて索道を敷設、その後、大正から昭和初期にかけて、尾鷲までの間に索道や軌道が次々と開業した。上北山村の河合と尾鷲の何枚田との間には、この地方最長の北山索道が開業し、製材品などが運ばれる一方、尾鷲からは米や海産物などが輸送された。
  同じくして上北山村と尾鷲を結ぶ峠道も整備され、地域住民の他、海産物や林産物を運ぶ行商人や郵便配達人、嫁入り行列などが往来する生活道として役割を果たした。
  昭和30年代に入り、北山川流域に次々と水力発電のためのダムが建設され、それにともない車道が整備され、人々の移動が車へ、木材輸送もトラック輸送へと移行し、索道が営業を停止、生活道も徐々に廃れていった。
  本講座では、上北山村と尾鷲町を繋いだ索道について、紀伊山地の急峻な地形をいかに克服して運材したのか、搬送ルートや接続駅など現地踏査から解き明かすとともに、現在でも奥山に残存する生活道について、我々の記憶から消えようとしている今、開削した当時の職人の知恵と工夫、技術の数々について紹介する。