FM三重『ウィークエンドカフェ』2013年7月6日放送

今回お迎えしたのは、岡本栄伊賀市長。
元はテレビ局のアナウンサーでした。
毎日、伊賀から大阪へ電車に揺られながら通勤をしていました。
現在は平成の芭蕉さんでもあり、忍者にもなる市長さんです。
岡本市長に、ふるさと伊賀を大いに語っていただきます。

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■伊賀に流れる、癒しの時間

アナウンサー時代は毎日、伊賀~大阪間を通勤していました。
なぜ利便性の高い大阪に住まなかったのかというと、こっちへ帰ってくると、癒される空間や時間があるからです。
よそでは感じることのできない、代えがたい素晴らしいもの。
それは、この街の歴史や文化や自然に基づくものであって、そういう意味で、伊賀は資源や資産が豊富なんですよ。
しかし人間というのは誰でも、目の前にずっと昔からあったら、ありがたいと思わないじゃないですか。

僕が初めてその『ありがたさ』に気づいたのは東京に出てからです。

上野高校に通っていた頃は、こんな狭い街で毎日毎日暮らすのはイヤで、公園の石垣の上から『山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う(カール・ブッセ)』のように、あの山の向こうに行ってみたいな、と思いながら暮らしていました。
そして東京に行ったんです。

けれど東京に出てきたある日、何でも伊賀上野にあるじゃないか、東京にないものがあるじゃないか、と眼から鱗が落ちたんです。
イヤだと嫌っていたはずの町に対して。

さらにちょうどその頃、一個上の先輩から、小田急デパートの屋上に来いと呼び出しがかかりまして。
怒られるのかと思い、恐る恐る屋上に行ったら、屋上から遠くを眺めてみろと言われたんです。
西には丹沢、東には筑波の山々が見え・・・。
東京は平野で山がないから、もし山が見たくなったら、ここへ来い、と言われました。
先輩によって、地元にどんなに大切なモノがあるのかを、再確認させてもらった感じですね。
外へ出たからこそ、大切なものがわかる。

今、そういう視点で、伊賀の素晴らしいものを世の中の人にプレゼンしていく必要があるということで『観光戦略課』というのを立ち上げ、観光の目的地である我々の方から提案するという『着地型観光』に力を入れています。
もちろん忍者や芭蕉などメジャーなものもありますが、それだけでなく、例えば和菓子や日本酒、それから農作物・・・色々な切り口を作ることで、提案していけるものがたくさんあるんです。
そして、地元の人もそれを発見することで、地域に誇りが持つことができると思いますね。


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■大人が楽しめる忍者の町を!

忍者というと、今までちょっと暗いイメージがあったじゃないですか。
裏をかかれるとか裏切られるとか、後ろからグサッと刺されるとか・・・。
しかしアニメ『忍たま乱太郎』などでそういったイメージが払拭され、楽しいように変わってきています。

さらに、忍術は情報産業。
どうやってサバイバルで生き延びるか、生活の知恵、生き残る知恵、生き残る工夫・・・防災などにも使えるんじゃないでしょうか。
でもミズグモは無理。
絶対に沈みます(笑)

世界遺産に認定された熊野古道には、吉野も含まれており、そこの修験と忍術というのは、印を結び九字を切るなど、密教を通して関係が深いんです。
今年の4月の末から5月の連休まで、伊賀市内で『忍者フェスタ』を開催し、子供向けの忍術道場などをやっていたんですけど、次は大人のメディテーション的な部分から、忍術に迫っていきたいですね。
三重大学が今年、忍者をテーマに、学際的な講座を行なっているので、そういうのに参加していただいて、いろいろ提案してもらえると嬉しいです。

また、そういった『大人が楽しめる忍者の町』を踏まえて、今年の頭に、東京六本木のミッドタウンで観光キャンペーンを行いました。
僕は、忍者の頭領用の大きな黒のマントを持っているので、それを着てセレブや外国の方々にパンフレットを配っていたら、先方の奥様から、
「あなた本当に市長さん?」と聞かれたので、
「それは違います、忍者が市長になったんです」と答えました(笑)


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■藤堂藩と伊賀

みなさんは伊賀上野というと、伊賀の真ん中だけだと思うでしょうが、実は藤堂藩はとても広かったんです。
全部で32万3,250石あり、津と伊賀と大和山城御領分というのがあって、現在の木津川市からこちらが領分でした。
奈良県は奈良の町を除いて、天理・桜井から、こちら側は全部、伊賀上野の領分で、これが約5万石。
伊賀10万石と城和御領(山城と大和)で5万石あり、さらに津の本藩がありました。
伊賀上野では津を『本藩』と呼び、こちらを『支藩』と呼びました。
そういう意味では、現在とはまったく違うシステム・・・連邦みたいな感じだったんです。
伊賀上野の城代は藤堂采女と言うんですが、本姓は『安田』という、伊賀の土豪なんですよ。
藤堂家の本当の人間が治めるのではなく、地元の頭領に藤堂の名を与えた、間接統治だったんです。
そうしないと伊賀の人々の気持ちも収まらなかったし、うまく治めるための知恵ですね。

歴史的な背景を見ると、東から来るのはろくなのがいない(笑)
信長もそうだし、中央集権も東から来るし。
だからどうしても、西へ西へ向いてしまう傾向がありました。
そのせいか、伊賀の人間は姻戚関係が京都や滋賀、大阪方面が強いんですね。

そういう繋がりがある大きな例が、伊賀上野の『天神祭』。
これは妙な祭で、『天神』と言っているのに、中身は京都の祇園さんように鉾が出て、鬼行列では日本一大きい『御幣』が出て、奈良の役行者が出て、大阪のだんじりが出て・・・。
奈良と京都と大阪の文化が一つになっているお祭りなんですよ。


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■東京と大阪の桜の名所には伊賀上野と関係が!

かつては、東京の上野公園の不忍池の上に藤堂藩の屋敷があり、『上野』という地名もそこから来ているとか。
また、大阪の桜の名所『造幣局の通りぬけ』も藤堂藩があったればこそ、今日(こんにち)があるんです。
造幣局になる前は、藤堂藩の蔵屋敷があり、伊賀のお米を川船などで流し、大阪の蔵屋敷で販売していたんです。
で、その向かい側に桜の名所があったことから、藩の役人が「あのような桜をわが藩内にも植えよう」ということで、ずっと川沿いに桜を植えたんです。

そして明治維新後は土地を返して、こちらに戻ってくることに。
そこにあったお稲荷さんは伊賀上野に持って帰って来たのですが、さすがに桜は持って帰れません。
そのままにしておいたら、そこが造幣局になり、大阪市民に公開されるようになり、今に至るわけです。
さらに、桜の件を発案をし、最初に桜を植えたのが、服部庄左衛門さんという伊賀上野の寺町に住んでいた藤堂藩士だということが、ごくごく最近わかってきたんです。

街づくりの一環として、それにあやかり、伊賀上野の銀座通りを桜の名所にしようと、今、奮闘しているところです。
来年以降・・・花をつけるのはまだ先ですが、ひょっとしたら何年か後の『忍者フェスタ』の時には、爛漫の八重桜の通りぬけを楽しんでもらえるかもしれません。

僕が常々言っている街づくりは『勇気と覚悟のまちづくり』。

先日、伊賀市出身の千代の国関が来てくれたんですよ。
先場所が9勝6敗と良い成績を収めたんですが、中4日、負けこんだ時があったんですね。
あの時どうしたのかを聞いたところ、取り口を考えて立ち会いをしたら負けたと。
最後、「ぶつかっていけ!」という気持ちで行ったら勝った、と言っていたんです。

街づくりも同じで、どういう計画がいいだろうかという検証を求める前に、ぶつかっていく、やってみるという気概が大事だと思います。
来るべき10年、20年後に備えて、気概と勇気でいきたいですね。