FM三重『ウィークエンドカフェ』2018年11月24日

今日のお客様は、映画看板職人の紀平昌伸さん。
津市にある工房には紀平さんが今まで描いてきた作品がたくさん保管されています。時代を映しだす映画看板は、それぞれ迫力があり、とても華やか。
広告美術の職人として現代の名工にも選ばれている紀平さんにお話を伺います。

学卒業後、映画看板職人に

中学卒業して看板屋さんに就職が決まっていたのですが、父が「昌伸は絵が好きだから、なんとか絵の描ける仕事に就かせてやりたい」ということで、街を回り、映画の看板を描いている職人さんに頼んで弟子入りしたのがきっかけです。
物心ついたころから消し炭を持って、家の外塀にいろいろ描くような子どもでした。
電車を描くときは電車になりきって、オートバイを描くときはオートバイになりきって、ダダダダダダと言いながら描いたのが基礎となっています。
弟子入りしてからは親方のを見て覚えて。
津の親方に4年ついて、その後、名古屋からこちらに来た親方に3年ついて、計7年ほど修業しました。
名古屋の親方の描き方は津の親方のとぜんぜん違い、都会の描き方を覚えようと、その人のクセからなにからすべて吸収しました。
今の私があるのは、その名古屋の親方から名古屋系統の描き方です。
東京、名古屋、大阪、京都・・・みな描き方が違うんです。
東京のは、絵かき崩れが看板職人になることが多いので、絵としてはうまいですが、名古屋は映画の看板として迫力があるし、色もきれいです。
大阪や京都は油性のペンキで描いているので、ちょっとおとなしめで日本画的な描き方をしています。
私は名古屋系統が一番ダイナミックで好きですね。
大勢描くときは顔にピントを当て、それからだんだん下に来るほど背景に溶け込ませて、背景に近い色にしています。
顔を描くときは目にピントを合わせますね。

 

ーク時は3つの映画館を掛け持ち、2本立ての看板を1週間で描くことも

1960年をピークに日本映画産業が衰退して、娯楽がテレビやマイカーに移ってきました。
映画館は1つ1つ閉館し、私たち手描きの職人の仕事も終わってしまいました。
かつて映画館は津市内で9〜10館ありました。
そのうちの3館を掛け持ちで描いていたので、2本立てで1週間を描くということで描いても描いても追いつくことがなく、忙しい毎日でした。
情報のない時代だったので、映画の看板を見てお客さんが足を運ぶという、予告編のような役目をしていたんですね。
客の入りが悪いと、看板が悪いんじゃないかと言われたこともありました。
だから顔だけを入れてタイトル入れるのとは違って、活動写真ですから動きがあって迫力のある絵が必要でした。
西部劇だったら幌馬車がインディアンに追いかけられて砂煙をあげて走っているところとか・・・そういう動きのあるところを描いてほしいと支配人に言われました。
看板職人はみな、競争していましたね。
あいつには負けたくないと、損得関係なく看板を描いていました。
洋画が主だったので、洋画の看板をよく描きました。
枚数にして4000枚近く描きました。
たくさんの映画スターを描かせてもらいました。

 

番多く描いたのは『ローマの休日』

今も120枚くらい描いたのが貯まっていますが、好きな映画や俳優さんを描いてきました。
『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーンは何回も見ているし、何回も頼まれて描きました。
イタリアに行ったときにはそういった名所をみな見てきました。
これがスペイン広場、真実の口、トレビの泉・・・当時と変わらないので、懐かしかったです。
今はもうこういう手描きの看板を見たことがないですが、もう一度当時に戻って、自分のレベルがどれぐらいだったのか知りたいですね。
今はどこに行っても出力シートでプリントした看板しかないんですわ。
当時は大きなプリントをするのは価格が高かったので、職人さんが描いていました。
津にも7〜8人の職人さんがおりました。

 

古屋の親方から得た技を大切にして描いている

今描いていても、やはりその時代の親方が描いた、感動した絵を頭に浮かべて描いています。
本当に感動しました。
名古屋の映画館に行くと、すごいなと思いながら看板を見ていましたが、実際に描くところを見たことはありませんでした。
その親方が『津東映』が名古屋の直営館になり、『名古屋東映』から津に来るようになって描くところを見せてもらったときは、本当に大ショックでした。
今まで自分たちが描いていた技法とぜんぜん違う。
一つの顔を描くのに、私らは上から順番に塗って、3時間ほどで仕上げるんですが、その人は描く前に一面に水でビタビタに濡らしておいて、水が乾かないうちに調合したペイントでサァーっと描いていくんですね。
乾かないうちに滲ませたり、光と影を付けて目鼻をつけると30分ぐらいで仕上がるんです。
さらに、私たちは顔しか描いていなかったけど、その人は背景を描いていくんですね。
東映の時代劇などのチャンバラしている姿を、背景の色に合わせて描いていくのですが、それが乾くと浮き出てね・・・その時の感動は今でも忘れられないです。
その人のすべてを吸収して、それが今の私の作品に表れています。

親方から教わった技術を吸収し、23歳で独立、『キヒラ工房』を立ち上げました。
ポスターやチラシ、写真をじっくりと見ながらレイアウトを考え、目立つ看板作りに取り組んでいます。

今度描きたいと思う人は、今まで一度も描いたことのない山本富士子さん。
小津安二郎の『彼岸花』という映画をする機会があったら、描きたいですね。